私たちが日常で感じる怒りや悲しみ、人を信じられない気持ちの多くは、「人に期待しているから」ということが大きな原因です。
この期待は、意識していなくても無意識のうちに生まれ、私たちの感情に深く関わっています。
気づかないうちに期待してしまう自分に気づいたら、その心理を理解し、自己理解を深めることが大切です。
ここでは、期待の本質について考え、どのように自分を見つめ直せば期待をせずに済むのかを探ります。
私たちは複雑で多面的な存在なので、すべての原因を一つに絞るのは難しいですが、新たな視点を持つことで自己成長の糸口を見つけ出すことができます。
期待する人とそうでない人の違い
期待とは、何かを強く望み、その実現を心待ちにする心理状態です。
「配偶者は優しくあるべきだ」
「次の宝くじで当たりが出るかもしれない」
「あのリーダーなら国を変えることができるかもしれない」
このような期待は、私たちを動機づけ、活動的にし、不安や恐怖から逃れさせ、人間関係を築く助けとなります。
一方で、期待しない自由もまた、重要です。
「今日は仕事を忘れて公園で遊ぶだけ」とリラックスすることもできます。
期待による一時的な安心感と、期待しないことによる長期的な自由とのバランスをどのように取るかが、幸せな人間関係を築く鍵です。
期待をしない勇気
他人に自由を与え、その結果を静かに見守ることができる人は、期待を持たないことの大切さを知っています。
しかし、その自由を許容することは不安や心配を引き起こすこともあります。
関与と期待が増えるほど、決めつけや思い込みが強くなり、他人を縛りつけることにつながりかねません。
期待する人としない人の大きな違いは、介入するかどうか、そして相手を信じて見守ることができるかどうかです。
特に親子関係で見られる「自分の子どもを信じて任せることができるか?」という問いは、この違いを明確に示します。
身近な人ほど期待が強くなりがちですが、その心理的な距離感についてさらに理解を深めることで、より良い人間関係を築くヒントが見つかるかもしれません。
相手に期待することは、実は相手をまだ理解していない証拠です
人との距離感が近いほど、つい自分の考えや感覚を相手に投影しやすくなりますね。
でも、他人は結局“他者”。どんなに理解しようと努めても、完全に理解するのはなかなか困難です。
だからこそ、私たちは共感力や認識力を磨くことが大切です。
自分が体験したことを通じて初めて「理解した」と感じる瞬間があります。
「そのハンバーグ美味しそうだね」と言われても、自分で味わうまではその美味しさは完全には分かりませんよね。
実際に自分で体験することで「本当に美味しい!」と実感できる。
これを禅宗では「自覚聖知」と呼んでいます。直接体験して初めて理解する、これが「自覚聖知」なんです。
特に、親しい人ほどその人をよく理解していると思いがちですが、自分の見方を相手に押し付けてしまうことも。
相手の独自の視点や感情を大切にしなければ、本当の理解は生まれません。
結果として、理解していると思い込むことで期待だけが膨らんでしまうんです。
期待することのリスク:所有欲、支配、強制
期待はよくない執着や自己中心的なエゴの表れとも言えます。
特に、過剰な期待は人間関係において問題を引き起こします。
例えば、家族関係や職場での不健全な依存や、ストーカー行動などがこれに当たります。
相手を自分の所有物のように扱ってしまうと、相手を理解しようとする気持ちが失われ、支配や利用が始まります。
「なぜ私の言う通りにできないの!」や「今日までに目標を達成しなさい!」などの発言は、相手を理解しようとせず、自分の要求を満たすためだけに相手をコントロールしようとする態度が見え見えです。
このような関係は、相手に対する過剰な期待と干渉を引き起こし、最終的にはより深刻な問題へと発展する可能性があります。
期待しないためには「相手を知る」ことの難しさを受け入れましょう
相手を真に知ることは非常に難しいです。自分の先入観を捨てることから始めなくてはなりません。
相手を理解しようとするあまり、かえって相手の本質を見失うこともあります。
相手に近づこうとするほど、期待が増えるのは、このためです。
相手を本当に理解するには、社会的な立場や役割を超えて、その人の内面に触れることが重要です。
私たちの人間性は本来平等に基づいていますが、社会的な階層がその本質を覆い隠すこともあります。
特に家庭内でよく見られる「私が育てた」という思いが強ければ強いほど、相手に対する期待が強まります。
「お返しを期待する」という心理が動いてしまいます。
相手を真に理解し、健全な関係を築くには、互いに平等で対等な関係性を保つことが鍵です。
これが実現されたとき、過剰な期待をせずに相手を信頼し、尊重することができるようになります。
条件が整うと、期待は自然と芽生えます
人間関係における不平等は、信頼や尊重を育む土台を壊してしまいますね。
さらに、ある要素が加わると、期待が自然と生まれるようになります。
それは「見栄」です。見栄は人間関係の基盤を弱め、上下の差を生んでしまいます。
たとえば、「彼氏だから、妻だから、親だから、上司だから…」という期待は、しばしば私たちを失望させたり、無関心を選ばせる原因となります。
でも、関係に見栄が加わると、私たちは自分を低く見せないように、そしてより上に立とうと必死になります。
例えばレストランでの食事では、「お金を払っているから」という前提で、料理や接客に期待しますよね。
この期待が満たされないと不満を感じることも。これが行き過ぎると、クレームをつけることもありますね。
心を開かないことが期待を作り出す
見栄を言葉にすると、「自分のためだけに心を開く」「相手のためには心を開かない」ということになります。
平等な関係があれば、信頼を築き、互いに尊重し、思いやりを持つことができます。
親と赤ちゃんの関係が良い例です。
赤ちゃんは無条件で心を開き、親も心を開くことで、お互いに深い結びつきが生まれます。
ただ守りたい、見守りたいという純粋な思いが根底にあります。
でも、見栄が入ると「相手のためには心を開かない」という壁ができてしまいます。
これは、相手に何かをしてあげることに抵抗を感じる状態を意味し、結果的に不満や不安を引き起こします。
期待しないためのポイント
期待は本質的に執着から来るものです。私たちは興味や関心のないことには期待をしません。
しかし、家族など親しい人には自然と期待を持ってしまうものです。
社会生活では、期待なしにはやっていけませんが、適切に期待を管理し、社会生活とプライベートを区別することが大切です。
これにより、状況に応じた適切な対応が可能となり、自分自身を客観的に見ることができるようになります。
見栄を手放して期待を減らす方法
期待しない自分を育てるためには、見栄を手放すことがとても大切です。
見栄は心の防御壁として働きますが、本当の自分を守りながら、他人との深いつながりを妨げてしまうことも。
見栄を捨てることは簡単ではありませんが、「この人なら、平等で対等に接することができる」と感じる人を見つけ、そう思える人に対して見栄を捨てるよう心がけることが大切です。
このステップは、心を豊かにし、互いの理解を深める助けとなります。
社会的な背景や家庭環境が期待を生む場合もありますが、そうした期待を変えるためには、根本的な価値観の変革が求められます。
それはまるで人生を二度生きるかのような大仕事ですが、挑戦する価値は十分にあります。
尊重することで期待しない自分を育てる
「相手のために心を開く」という決断をして、それを実践できたとき、期待しない自分が育っている証拠です。
この意識を持ち続けることで、自己制御が強化され、期待しない自分をより育てやすくなります。
日本では特に、心を開かないことが一般的な態度かもしれませんが、「相手のために心を開く」ことは、時間や労力を要し、時には自分が傷つくリスクを伴うことです。
それでも、この行為ができる人は、真に他人を尊重できる人と言えるでしょう。
尊重する人は、相手の自由を信じて見守り、相手の選択を尊重します。
彼らは他人に干渉せず、それぞれの人が自分の道を歩むことを支持します。
そんな人たちは、恐れるものがなく、見栄を持つ必要もなくなり、真の意味での愛を育むことができます。
まとめ
期待とは、他人に何かを求め、その見返りを期待する心理から生まれます。
これはしばしば、平等でない前提から引き起こされる問題です。
しかし、過去の継承や社会の構造に縛られず、自ら変化をもたらすことができるのが私たち人間の素晴らしい特性です。
他人を尊重し、心を開くことで、自分自身も豊かになることができます。
それは困難な道のりかもしれませんが、精神を磨き、真の優しさや強さを育むことができます。
こうした進化を歩むことは、確かに挑戦ですが、その旅は自分自身にも、そして周りの人々にも大きな利益をもたらすでしょう。